功績と功罪


Dafunkfest @Makuhari-messe
Act:DaftPunk
Sonpub
Cazals
DexPistols
Hifana
SebastiAn/Kavinsky


まさに今年のモードの総決算であり今年でしか集まらないメンツ

ただDafunkfesと銘を打って集まったけれどもそこにDaftpunkのイズムは感じられなかったような気は否めない もちろんSebastiAnやKavinsky、DexPistolsのセットでも鳴り響いたJusticeを産んだフレンチエレクトロという土壌を作ったことは彼らの功績なのだけれど、もはやダフト・チルドレンと呼ぶには流れが変わっているような印象があった
DaftPunkの時代はもはや大昔?


New Raveの看板を背負いながら戦ってもきただろうJusticeらED Banger周辺に代表されるエレクトロ勢にはすごくフランス人的なプライドの高さが感じられた
他のシーンとの際でもある、強烈なベースやシンセの鳴りが語るようにとてもそれがアイデンティティとも鳴りえたような気がする

DaftPunkがダンスミュージックの中にロックの肉体性を含んでいたことで広くシーンに迎えられたこととJusticeらが受け入れらたことの原理は同じものである
しかし、そこには同時に内側への「アイデンティティ」となりうるサウンド、ビートがある
DafuPunkの音楽にはそれがなく、ただアンセムと成りうる珠玉のビートがあったわけだが、この点が今の世代である彼らが出した答えなのかもしれない
まぁ、この極めてフランス的な音楽もメディアによってNew Raveとしての範疇に取り込まれてしまったことでシーンとしては短命になるかもしれないのだけれど


ファッション感覚で次々と食い散らかすKitsuneの存在は功績と同時に罪な訳で
彼らがウケたのは、「食い散らかす」ということが「リスナー」であることだったからである 「リスナー」というのはそうでなければいけない ワガママでなきゃ
レーベルがリスナーに近い距離でセレクトすることは無責任でもあるし、シーンにゴミを産む可能性だってある 実際Kitsuneから出た音楽で生き残るものは少ないだろう
ただそれは「ブーム」というある一定の範囲の中の横の時間軸の区分を食い散らかしながら生きる僕らリスナーと同じものであって、僕らも無責任な存在であることを表している
ただそこに批判や批評があまり産れえてないことが残念か 特にハイプに弱い日本人


今年でしか見られないメンツで今年の復習授業!
来年はどうなるかなぁと高みの見物的な視点で楽しませて頂きました ごちそうさまー


次は今年の総括でもしようかな 論文発表も終わるし!